ときには勇ましく、ときには華やかに、歴史の舞台となったこの町は、 雄大で優美な手つかずの自然が残る景勝の地。 静かに佇むそのひとつひとつを丁寧に辿れば、 やさしい琴浦の素顔が見えてきます。

 

伯耆三嶺 (大山、三徳(美徳)山、船上山)

 

~船上山は山岳仏教の聖地だった~

 船上山が古来、大山や三徳山とともに山岳仏教の聖地だったことは、『伯耆民談記』(松岡布政著)の巻三の「仏閣の部」に、船上山・大山・美徳山が並べて記述されていることで明かであり、その、『伯耆民談記』には、船上山は次のように記されている。

 智積(ちしゃく)仙人の連行の旧柄、赤衣上人の草創の山なり。 船上山智積院と号す。地蔵権現を本尊とし、十一面観音、多門天を脇主として、三所権現と称するなり。本社より百歩余り去って、熊野権現の社あり。奥の院と号す。不動の滝として大なる瀑布西の方に見ゆ。南の方に烏ヶ山、矢筈ヶ山、兜ヶ山なんど云う三嶺鋭どに聳え、麓より山道をうかがえば、西は岩石をたたみたる九十九(つづら)折(おり)、三十余町に及び、東は猿坂とて十余町も有らん嶮阻(けんそ)の切所なり。当国三つの嶮嶺にして、地理の景色、筆墨の及ぶ所にあらず。

 また「船上山根元記」と題した古文書(琴浦町指定文化財)には次のように記されている。

=船上山縁記=
一、 白州八橋郡船上山三所大権現と尊敬し奉るは、本地は地蔵大菩薩、左の御脇立は霊蔵権現、右の御脇立は毘沙門天なり。
一、 熊野大権現社あり。そもそも船上山と申すは、智積仙人開闢(かいびゃく)の地にて、人皇四代懿徳天皇の御建立、夫より寛保弐巳年まで二千二百五十八歳に成る。

  右の記事によれば「船上山根元記」は、『伯耆民談記』とほぼ同じ頃に記されたものと思われ、その著者は恵海(智積院四世)と伝えられているから、本尊の記録などは「船上山根元記」の方が正しいと言わねばならない。ただし智積仙人の開闢(かいびゃく)を懿徳天皇威徳天皇の時代とするのは信じがたい。なぜなら大山の開基も智積仙人であるとする『伯耆民談記』には、大山の開基は「称徳天皇の勅願」と記されており、おそらく『船上山根元記」が「懿徳」と称したのは「称徳」の写し誤りなのであろう。すなわち船上山は大山が称徳天皇(在位七六四~七六九)の御代に開山されたものと同時期に開山したと考えるべきなのである。当時は所謂、天平時代で東大寺が建立されたりして、仏教が盛んだった時代である。

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大山隠岐国立公園 船上山

千丈のぞき

大山隠岐国立公園内にある船上山(615m)は、その南方に連なる勝田ヶ山(1,149m)、甲ヶ山(1,338m)、矢筈ヶ山(1,358m)などと連なり、古期大山(約100万年前)の外輪山といわれている。

船上山の頂上は広く平坦となっているが、東西及び北方は柱状節理(両輝石安山岩)による高さ100m以上の断崖(屏風岩)で天然の要塞をなしている。

この屏風岩の南端には、頂上の台地から勢いよく流れ落ちる雄滝(おんだき)と雌滝(めんだき)があり、この2つの滝を千丈滝という。

 

船上山の歴史と景勝の探訪

船上山合戦

船上山は、平安時代の初期ごろ(約1,200年前)から山岳仏教が栄え、大山、美徳(三徳)山とともに伯耆三嶺とよばれた、修験道の零場であった。

のちに、元弘の乱により隠岐へ配流となった後醍醐天皇が1,333年に隠岐を脱出して名和長年に奉ぜられ、船上山合戦に勝利し「建武の新政」の礎となった歴史の山でもある。

このように長い歴史と自然に恵まれた船上山は、春は桜・青葉・山菜取り、夏はキャンプ・登山、秋は紅葉と四季折々に訪れる人を楽しませている。

 

船上山のみどころ

船上山パンフレット